天守

福山城外観01

1619年(元和5年)海路にて福山市南部、鞆の浦より上陸した水野勝成は、城郭及び城下町の候補地を選定すべく領内を巡視し、最終的には現在福山城が鎮座する常興寺山を築城の場として定める。ここは城背の北側を山陽道が通り、また南面は内海に臨み、外港の鞆の浦等、海陸共に交通の要衝地であったことがその理由として考えられる。
1620年(元和6年)よりいよいよ始められた築城であるが、縄張(なわばり)の設計は普請場麓(ふしんばふもと)に屋敷を構えた上で勝成自身が行ったと言われ、大量の石垣は当時水野家領であった瀬戸内北木島や白石島から運んでいる。一国一城令が発布されている時世において本格的な築城が許されたことは異例の事態であり、西国鎮衛(さいごくちんえい)の観点から見た福山城の重要性と、更に勝成に対する並々ならない期待が窺える。完成は1622年(元和8年)で、その後すぐに正式入城を果たした。

福山城外観02
 
福山城外観03

天守は5層6階、2層3階の小天守を接合する層塔型複合天守であり、1層目の南北面と2層目の東西面は比翼入母屋(ひよくいりもや)、その他の各層にも唐破風(からはふ)・千鳥破風(ちどりはふ)といった2種類の破風を備えた太平の世を表す華美なものであった。しかし外敵から視認しにくいよう鉄砲狭間を破風や懸魚(げぎょ)の裏側近くに設けている点や、天守入り口真上といった要所に備えられた海鼠壁(なまこかべ)、地階への換気と明かり取りの為に設けられた格子窓など、実用性や耐久性も考慮されていると言える。更に天守自体の用材には東北の特産である丈夫なアスナロが用いられるなど、その念の入れようは凄まじいものであった。
更に他城にはない、かつての特徴として搦手の防御とするため北側のみ鉄板張りとしていたことが挙げられる。城郭建築の研究者である藤岡通夫氏が遺した学術論文『天守閣建築の研究』に戦前の福山城に関して『壁構造の特殊なものとして塗込壁の上に鉄板を張ったものがある。備後福山城天守の北面の壁に用いられているのがそれで、北側のみは全面に鉄板を張っている。…それは極めて特殊なものであって他に類例は全くない』と記している。

阿部時代に変わっても福山城は福山藩のシンボルであり続けたが、時代は変わり1873年(明治6年)、俗にいう廃城令が建白される中でいよいよ福山城はその役割を終える。しかし福山町民からの寄付金で修繕を行うことでなんとか維持し続け、1931年(昭和6年)、国宝に指定される。残念ながら1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲の際に焼失、現在の天守は1966年(昭和41年)に再度市内企業や市民からの寄付金で再建されたものであるが、そうした多くの人物の想いが込められた天守といえる。

今回の令和の大普請(2020年(令和2年)~2022年(令和4年))では、残された古写真や他城の鉄板の調査、往時の鉄板との比較検証などを行い、素材感などを再現するとともに安全性・再現性に配慮した復元的整備を実施。全国唯一といわれる天守北側鉄板張りや最上階の窓形状、狭間など往時の姿に外観復元された。

福山城外観04