福山城物語

昔は海だった?!
福山城の今昔

もともと福山は田畑や湿地帯が広がる地域でした。
そこに福山城を築城し、干拓とともに町を広げていった歴史があります。
福山の発展の歴史を古地図で比較して見てみましょう。

古地図から見る福山の歴史

江戸時代初期、江戸時代後期、明治、昭和の福山を古地図で比較することができます。

江戸時代初期

水野日向守殿時代城下絵図(福山城博物館蔵)

水野時代の福山城下を描いた絵図。福山城は白抜きとしてあるが、三之丸家老屋敷には水野玄蕃・鈴木久兵衛・中山外記といった水野家の家老名が記され、城下を赤色が寺社仏閣、黄色が武家屋敷、青色が町人屋敷といったかたちでその要項により色分けしている。このことからも城を武家屋敷で囲み、更にその周りを寺社仏閣で囲むかたちで配置されていることが分かる。

江戸時代初期地図
江戸時代後期

天保4年福山御城下図(福山城博物館蔵)

1710年(宝永7年)阿部正邦(まさくに)が宇都宮より移封することで幕末まで阿部家が治めることとなる。本作品は1833年(天保4年)、福山藩阿部家6代正寧(まさやす)の時代のものである。三之丸には水野家時代同様、佐原作右衛門・下宮三郎右衛門・内藤角右衛門といった阿部家の家老が名を連ねる

江戸時代後期地図
明治時代

明治32年広島県備後国深安郡福山町全図(福山城博物館蔵)

1871年(明治4年)、廃藩置県が行われることで福山藩は福山県と呼称が変わるが、そのわずか4か月後には福山県をはじめ深津・沼隈や倉敷・高梁等備中の諸県が廃県となり新設の深津県に、更に翌1872年(明治5年)には笠岡を県庁所在地として小田県と目まぐるしく改称される。その後も1875年(明治8年)には岡山県に合併されることになるが、その翌年である1876年(明治9年)には、備後6郡を切り離して広島県に移管され、現在の県域が確定した。

明治時代地図
昭和時代

昭和28年福山市鳥瞰図(福山城博物館蔵)

1953年(昭和28年)の福山市を描いた縦90cm、横295cmと実に長大な鳥瞰図。作者の寺本左近は香川県出身の画家で鳥瞰図の代表的な画家である吉田初三郎の門下として、尾道等瀬戸内沿岸で活躍した人物である。
1945年(昭和20年)8月8日、福山は100機近い(諸説あり)B29爆撃機による空襲を受け、福山城天守も焼夷弾の直撃を受け焼失。本作品でも天守台のみが遺る福山城と戦災を免れた伏見櫓が描かれている。

昭和時代地図