福山藩主について
歴代藩主 水野勝成から16代藩主 阿部正桓までの歴代藩主の紹介や古地図・古写真などの資料から見える
福山城の姿を「福山城デジタルアーカイブ」として紹介します。
藩主在任期間
1710年(宝永7年)~1715年(正徳5年)
生没年
1658年(万治元年)~1715年(正徳5年)
1658年(万治元年)阿部家5代当主として武蔵国で生まれた。1671年(寛文11年)父定高の遺領であった武蔵国岩槻(むさしのくにいわつき)を襲封したが、1681年(天和元年)丹後国宮津(たんごのくにみやつ)、そして1697年(元禄10年)宇都宮へと転封を重ね、1710年(宝永7年)53歳で備後国福山に入封する。ここから明治時代まで福山藩阿部家の歴史は始まる。
入封後は、石高・戸口・牛馬数・木綿などの商品作物・水野家浪人の居住の有無などを記した差出帳を全ての村々から提出させた他、升改めの実施や、喧嘩・盗難の取り締まりといった治安維持を目的とした35ヶ条の条々の発布等、領主交代による動揺を収めて領内の掌握に勤しんだ。1713年(正徳3年)頃までには領国の実情を把握したようだが、1715年(正徳5年)江戸において死去した。
阿部家について、初代の正勝は家康が今川家の元で人質生活を送っていた時期から近待している。更に2代正次は徳川秀忠に代わり大坂冬の陣終結後に徳川方の代表として豊臣方と和平交渉を行う等、水野家や松平家と同じく代々徳川家に仕える譜代の家柄である。
藩主在任期間
1715年(正徳5年)~1748年(寛延元年)
生没年
1700年(元禄13年)~1769年(明和6年)
阿部正邦の4男として1700年(元禄13年)江戸藩邸で生まれた。1713年(正徳3年)嗣子(しし)となって7代将軍徳川家継に謁見し、翌年従五位下伊勢守(じゅごいのげいせのかみ)、1715年(正徳5年)父正邦の死去によりその遺領10万石を弱冠16歳で襲封した。
1745年(延享2年)に47歳で幕府直轄地である大坂城を総監する大坂城代に就任。これによって阿部家が譜代の名門として幕閣へ登場する足がかりを掴んだと言える。
だが、大坂城代は病気のため2年程で辞任し翌1748年(寛延元年)に家督を嗣子正右に譲り、33年の藩主任期を終えて隠居した。その後、1769年(明和6年)70歳で死去。
藩主在任期間
1748年(寛延元年)~1769年(明和6年)
生没年
1724年(享保9年)~1769年(明和6年)
1724年(享保9年)、正福の次男として江戸藩邸で生まれ、1748年(寛延元年)25歳で10万石を襲封し、翌年には従五位下伊予守(じゅごいのげいよのかみ)に任じられている。
その後、幕閣への道を歩み初め、1752年(宝暦2年)29歳で奏者番(そうじゃばん)に補任されてから同職9年、1760年(宝暦10年)から京都所司代、そしていよいよ1764年(明和元年)から老中を5年間と、江戸あるいは京都に居住して栄進し続けた。
藩主在任期間は20年、そのうち幕府の要職には17年ということとなった。正右の藩主在任中の主な課題は、藩財政の緊迫状態からいかに脱出させるかであった。畳表・綿・塩などの特産品から運上銀(うんじょうぎん)の増収をはかる他、経済活性化のために1756年(宝暦6年)、1764年(明和元年)には藩札(宝暦銀札、明和銀札)を発行するなど、藩内の緊縮政策をはかるも1769年(明和6年)、46歳の若さで老中在職のままで死去する。
藩主在任期間
1769年(明和6年)~1803年(享和3年)
生没年
1745年(延享2年)~1805年(文化2年)
1745年(延享2年)、前藩主7代正右の3男として江戸藩邸で生まれる。1769年(明和6年)、25歳で正右の遺領を襲封し、1774年(安永3年)には奏者番となり、1779年(安永8年)寺社奉行兼任、そして1789年(天明9年)、老中に昇進し従四位下伊勢守(じゅしいげいせのかみ)に任じられた。藩主就任後の藩政の課題は前代以来の財政難の克服にあり、また、福山地方は連年の大凶作で、襲封翌年の1770年(明和7年)には百姓一揆が起こった。更に1786年(天明6年)暮れから翌1787年(天明7年)にかけては再び天明の百姓一揆となり、正倫はわずか11か月余の在任で老中を辞任し、その後は本格的な藩政改革に取り組んでいる。
正倫の治世はその前半は江戸にあって幕閣の要職の歴任に、後半は藩主として領国支配体制の再編成、もっぱら藩財政の立て直しに苦心したといえる。また正倫は1803年(享和3年)に致仕しているので藩主在任期間が34年余、福山阿部家10代中最も長い。
藩主在任期間
1803年(享和3年)~1826年(文政9年)
生没年
1774年(安永3年)~1826年(文政9年)
前藩主正倫の3男として1774年(安永3年)に江戸で生まれ、1788年(天明8年)従五位下備中守(じゅごいのげびっちゅのかみ)、1793年(寛政5年)対馬守(つしまのかみ)、同年主計頭(かずえのかみ)、1803年(享和3年)、30歳の壮年で襲封した。彼もまた父祖と同じく幕閣への道を歩みはじめ、1804年(文化元年)に奏者番、1806年(文化3年)寺社奉行兼任、そして1817年(文化14年)45歳で老中に任ぜられる。1823年(文政6年)病気のため老中を退任するが幕閣歴任21年の内、通算19年間も重職にあった。
正精の藩政に対する基本方針は先代正倫の政策の継承、つまりは藩財政の再建に重点が置かれており、中でも農村対策が挙げられる。1805年(文化2年)府中市の社倉や深津郡の宝講とともに、豪農商層が農村荒廃を救済するための全藩的機関である福山藩義倉を設立している。
藩主在任期間
1826年(文政9年)~1836年(天保7年)
生没年
1809年(文化6年)~1870年(明治3年)
正精の3男として1809年(文化6年)江戸藩邸で生まれた。1824年(文政7年)従五位下対馬守に任ぜられ、1826年(文政9年)、18歳で父正精の遺領を襲封し、1831年(天保2年)奏者番に任じられる。
ただ、襲封後数年間は天変地異により財政状況は窮迫状態に急落してしまう。1828年(文政11年)の大雨洪水による損毛(そんもう)九万八千石、1830年(天保元年)の大雨洪水による凶作、1831年(天保2年)の大早魃(だいかんばつ)などがそれである。
元来が病弱であったため1836年(天保7年)奏者番を辞職し、さらに同年には致仕(ちし)して弟正弘に家督を譲っている。福山藩阿部家の中でも比較的長寿であり1870年(明治3年)61歳で死去。
藩主在任期間
1836年(天保7年)~1857年(安政4年)
生没年
1819年(文政2年)~1857年(安政4年)
正精の6男として1819年(文政2年)江戸藩邸で生まれた。1836年(天保7年)兄の藩主正寧の養嗣子となり、同年従五位下伊勢守、そして正寧の致仕(ちし)により18歳で家督を継いだ。
1837年(天保8年)、福山に帰国するも、その滞在はわずか2か月余りであり、江戸に戻って早々に奏者番、1840年(天保11年)には寺社奉行を兼任する等多忙な日々を送る。更に1843年(天保14年)には25歳の若さで老中に抜擢され従四位下、そして翌1845年(弘化2年)に老中首座となった。1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航、翌1854年(安政元年)の日米和親条約の締結に至る開国問題を老中首座として指揮した。
正弘はその後も英・露・蘭の三か国と和親条約、下田条約の締結を行うが1857年(安政4年)、39歳の若さで病没する。老中の座のまま没しており、その最期まで日本の舵取りを行っていたと言える。
アジア諸国が欧米列強と戦争、また植民地となる中で積極的に情報を集め、諸外国との情勢を鑑みた上で平和的に開国への道を歩んだ事は大きく評価される。更に徳川斉昭、松平慶永・島津斉彬など親藩・譜代・外様の垣根を越えて連携をとり、衆論を採って幕政・外交に当たった他、高島秋帆(たかしましゅうはん)や川路聖謨(かわじとしあきら)、勝海舟に代表されるように身分にとらわれない人材を登用し、幕府政治においてもまれにみる清新の気風を起こした。
また、文武一体の教育を進め、江戸と福山に藩校誠之館を設立し、江戸は1854年(嘉永7年)に、福山は1855年(安政2年)に開校している。「先(ま)ヅ我藩ヨリ先鞭ヲ着ケ、文武ヲ引立テ」るため「先ヅ学制ヲ改革スベシ」として藩士の身分ではなく実力に応じて取り立てる等人材の養成と登用の道を開いたと言える。
藩主在任期間
1857年(安政4年)~1861年(文久元年)
生没年
1839年(天保10年)~1861年(文久元年)
正寧の長男として1839年(天保10年)江戸藩邸で生まれる。1857年(安政4年)叔父の藩主正弘の養子となり、同年19歳で正弘の遺領11万石余を継ぎ、従五位下伊予守に任ぜられる。
正弘の意思を継ぎ藩士の文武の道を奨励し、また海防のためにやはり正弘が画策した西洋式藩船の建造を発意するなど藩政改革に着手したが、1861年(文久元年)、23歳の若さで病没した。治世はわずか3年であった。
正教の早逝により福山藩阿部家3代正右から7代正弘まで続いてきた奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中といった幕府における阿部家の役職の就任は途絶えることとなるが、京都守衛、第一次・第二次長州出兵など、福山藩は譜代藩として新たなかたちで幕末の日本で活躍していくこととなる。
藩主在任期間
1861年(文久元年)~1868年(慶応4年)
生没年
1848年(嘉永元年)~1867年(慶応3年)
正寧の3男として1848年(嘉永元年)、江戸藩邸で生まれる。1861年(文久元年)兄の藩主正教の相続人となり、同年14歳で正教の遺領11万石余を襲封し、従五位下主計頭となる。1863年(文久3年)上洛して京都守衛にあたる。1864年(元治元年)以降、わずか17歳という若年で第一次・第二次長州戦争に福山藩兵を率いて出陣、第二次では石見国に出陣し大村益次郎率いる長州軍と交戦するも1866年(慶応2年)病を得て帰城する。
1867年(慶応3年)、わずか21歳という若さで病没、その激動の人生を終える。しかし幕末の混乱のさなかであることからその死は伏せられ翌1868年(慶應4年)、病死が公表された。福山藩阿部家当主の中で唯一福山に埋葬されている人物である。
藩主在任期間
1868年(慶応4年)~1869年(明治2年)
生没年
1851年(嘉永4年)~1914年(大正3年)
前藩主である正方の不慮の死の後、藩主不在であった福山藩であるが1868年(慶應4年)に広島藩主浅野長勲(あさのながこと)の弟である元次郎を正方の養子として、更に正弘の6女寿子に婿入りするかたちで迎い入れる。こうして福山藩阿部家10代藩主、奇しくも福山藩にとって最後の藩主として遺領11万石余を襲封した。同年、明治へと元号が変わった1868年(明治元年)には幕府残党であった榎本軍が立てこもる箱館五稜郭へむけて鞆港より出陣して箱館戦争へ出兵する福山藩であったが、翌1869年(明治2年)には榎本軍も力尽きて投降し、戊辰戦争は終了した。同年福山藩主は新政府に対して「版籍奉還」を建白、旧藩主正桓は知藩事に任命され、藩政改革に着手した。次いで1871年(明治4年)には「廃藩置県」が断行され福山藩は福山県となることで知藩事を罷免、東京へ移り住むこととなる。