伏見櫓(国重要文化財)
京都伏見城・松の丸にあったものを水野勝成の福山城築城に当たって、徳川2代将軍秀忠が移築させたものである。伏見城の城郭建築の遺構としては希有のもので、白壁3層の豪華な姿に桃山時代の気風が窺われる。また、2階梁より京都伏見城からの移築を表す〝松ノ丸ノ東やく(ぐ)ら〟といった刻印が発見されており、国内でも有数の、明確な伝来を持つ櫓としてその価値を更に高めている。
構造としては3層3階、本瓦葺(ほんかわらぶき)で、1階と2階は同幅員の矩形8間4分、4間5分、3階のみ4間2分と3間7分の正方形に近い形をする望楼型(ぼうろうがた)、南北棟の入母屋造り(いりもやづくり)である。外壁は江戸期以降頻繁に見られる総塗籠(そうぬりごめ)ではなく柱痕がそのまま露出しており、また北側、本丸側は木製の柱がそのまま露出している。破風は3階の四方に1つずつあり、特に東西のものは3階を貫く形で施されている。その他筋鉄御門方面を防御の為か1階東側に3つ、3階南側に2つ鉄砲狭間を備える。
また水野時代より城付武具の保管庫とされていたようで、1690年(元禄3年)の記録によると、水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”の入った足軽具足150、鉄砲100丁、弓100張…といった具合である。
福山城廃城後は1882年(明治15年)頃に個人の所有となり、骨董品陳列場、ならびにビリヤード場として利用された。しかし天守と同様に荒廃が激しかったため、1895年(明治28年)広島県から管理権限を福山町に上申の上移管、福山町民の寄付金1万円をもって修理が行われ、そこから更に1919年(大正8年)頃までは書画骨董を陳列する場となっていたようである。1933年(昭和8年)、御湯殿・筋鉄御門と共に国宝に指定される(1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により現在は国重要文化財)。1945年(昭和20年)8月8日に福山は空襲を受けるが幸いにして筋鉄御門と同様戦災を免れており、1954年(昭和29年)解体修理の際に上記刻印が発見されている。
先述したように本櫓は廃城後も、また戦災からも免れることでその姿を現代に留めており、福山城築城当時から現代まで福山の歴史を見続けてきた櫓と言える。
※内部非公開(但し例年11月3日文化の日(祝)は公開。見学方法(事前申込等)は福山市文化振興課HPに掲載予定。)